“強さ”と”優しさ”の衝突

幼い頃から長い間、”強さ”と”優しさ”の衝突が自分の中で起こっていた。二者択一を迫られている時、体はフリーズする。どちらも誰もが持ち合わせている素質だからこそ、この2つとの付き合い方を模索していたが、道半ばとしての解を一旦言語化した。

このエントリは処世術でもあり自己変容のプロセスの一つでもある。26歳時点の自分の暫定解。

 — 強さについて

”強さ”は競争における相対的な優位性と一旦定義する。スポーツ中心の生活で育ってきたこともあり、自分の中には、競争を楽しむ競争本能を飼い続けている。昔からとにかく負けるのは嫌いだった。そして今、僕らは社会人として資本主義経済の元に生きているため、己の評価は市場のメカニズムによって相対評価で定められていく。つまり生きていくために競争し続けなければならない。資本主義の構造にいる以上、この構造の中で生きていくことを強いられる。

 — 優しさについて

"優しさ"は言葉通りだが便宜上、受容性としたい。人間だから弱さはある。嫉妬、惰性、怠慢...etc...人間が持つ欲から生まれる過ちを慈悲の心で受け入れ、包み込んでいくことが優しさだと思っている。強さに固執することはべき論で自分を縛り付けることにもなるため、解放する優しさは社会にとって必要だ。

 

— 強さと優しさのシーソーゲーム

この二面性は誰しもが持っているはずで葛藤もあるだろう。
例えば、経営判断の時。経営は結果の良いパラメーターに寄せていく合理的な判断の連続ではあるが故に、時に残酷だ。皆を幸せにすることができない自分を悔いながらも、合理的な選択をしなければならない時、相手の感情もリアルに想像して絶句する。
例えば、誰かにマウントを取られた時。はいはいと受け流しながらも、心の中では競争本能に火が付いたりする。これは立場が逆の場合も然りだ。

恐らく自分は人より衝突が多い(と思っている)。

先日、友人に勧められてFFS診断をやってみたところ受容性と弁別性が高かった。受容性は「外部を受け入れようとする力の源泉」であり、弁別性は「相反する二律にはっきりと分けようとする力の源泉」を意味する。合理性とも言い換えられる。一旦受け入れて、自分の中に取り入れるものの、その後に白黒つけようとするので、その過程でぶつかるという現象がよく自分の中で起きている。

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ここでスタンスを切っておくと競争それ自体は好きだが、競争の先には何もないことを知っている。勝った、負けた、だからなんだ、というスタンス。だからファジーな表現になるが競争は好きだけど、疲れるし嫌いで望んでいるわけではない。あくまでも競争は手段。

自分の場合、この2つがゼロサム的なシーソーゲームを続けていた。競争本能が強く働く時、受容性は機能してない。完全に戦闘モードに入る。逆に受容性が強く働く時、競争本能は動き出さない。

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そして、このシーソーゲーム自体に疲弊してきた。

 

「世の中の50%以上は男の嫉妬で回っている。妬み・嫉み・僻みのが一番厄介なんだぞ、覚えとくといい」

 

以前、師にそう言われたことがある。

それ程、競争が生み出す「マウント」は階段を登れば登るほど巻き込まれる問題となる。現に今でも嫉妬からくる人の悪口はよく聞くし、自分も色々言われてるだろうと考えたほうがむしろ楽だ。SNSでは誹謗中傷も起こって悲しい事件が沢山起きているし人間ってのはそういう生き物だ。しかもその競争に自分も参戦してしまうと、マウントの連鎖が始まる。それは望んでいないし誰も幸せにならない。

そういった境遇がこれからも沢山起こるだろうと考えるだけ疲れるし、そういった人間の不完全さを受け入れながら、したたかに生きていく術は自分にとって必要不可欠だろうと思って対処に踏み出したのがここ数ヶ月だった。

ー 強さと優しさの共存

望む状態は、シーソーゲームではない。融合。
強くて、優しい、優しくて強い。これは共存しなければならないと思った。

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その状態はこの言葉に表れる。強さが先行する人は自然と語気が強くなる。優しさが先行する人は物腰柔らかいが、ややもすると依存を生み出す。どちらかが先行しても本当に届けたい言葉は届かない。エンゲージメントなきフィードバックはただの凶器であり、フィードバックなきエンゲージメントはただの馴れ合いだ。

そうこうしながら考え共存する術を探っていたが、恐らく衝突は誰かに屈した時に起きるものではなく、自分に負けた瞬間から起きることに改めて気づいた。

 

経営判断における衝突も自分の弱さが生み出した産物だ。対人における優越感や劣等感も自分が生み出した幻想だ。自分の逃避行動がこの衝突を生み出している。
競争本能は持ち合せて良い、というより生存本能と言い換えたほうが適切かもしれない。だが、その本能のままに戦ってはいけない。戦う相手を間違えてはいけない。

この塩梅がなんとも絶妙に難しいのだが、この試行錯誤こそが鍛錬の道。
そして逆説的になってしまうが、恐らくこれは競争のプロセスの中でしか磨かれない。

 

競争は確かに疲れるし、嫌いだ。そのスタンスは変わらない。でも必要なプロセスであると受け入れること、戦う相手を間違えないこと、衝突することは自分の弱さが原因であることに目を向けていけば何か違う景色が見えてくるだろう。

 

すぐ思い浮かぶ限りでの体現者はイチロー。彼の言葉は重く、優しい。彼が放つそれは、強者の論理であるにも関わらず、誰かを傷つける凶暴さを持ち合わせていない、だからしっかり届く。あの不思議な力はなんだろうと思っていたが、似たような感覚なのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。まだまだ分からないことだらけだが、近づけたような気もする。

争いに勝つことは真の強さに非ず

いつまで経っても本当の敵は、自分自身。そういった意味でも強さに果てはない。相対的な強さに一定の基準はあるが、社会的な強者と呼ばれる人達にも”弱い”人は沢山いると思っている。嫉妬の渦に巻き込まれて勝てないので。

そして人は争いを続ける。無駄な争いも多い。だから”自分と戦える”本当の強さを持ち合わせた人は、平行線を辿る争いを昇華させる使命があると思っている。

ワンピースを読んだことがある方は分かるかも知れないが、頂上決戦に置いて一番”強かった”のはコビーだろう。

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キングダムでも様々な大将軍が登場するが、一番強いのは”秦王・嬴政”。

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武力を持って、戦争をなくす。恐らく言葉は現代でも当てはまる。大事なのは、構造上発生しうる競争をまず受け入れ勝ち進めなければ行けないということであってその競争は何かをプラスに進めるためにあると信じたい。

願わくば分かり合いたい

先日、『三島由紀夫 vs 東大大共闘 50年目の真実』 を映画館で見てきた。

単純な構図で言うと、三島由紀夫は右翼、東大大共闘は左翼であり、言葉と言葉の争いが繰り広げられた。世界各国で革命が起きていたあの時代は日本も例外ではなかったわけで、敗戦国である日本は特別でもあった。

具体的な内容は省略するが、一番印象的だったのは本来、思想が違う同士が討論を通して分かり合っていった点である。両者の根本にあったのは「反米愛国」の思想であり、通じ合ったのか最終的に三島は東大大共闘側から「共闘」を申し込まれる。

手段は違えど、底にある目的が一緒の場合は往々にして存在するはずだ。三島達は言葉を通じて分かり合ったはずだし、バガボンドの世界では剣を通して分かり合っていった。

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衝突を生んでいた競争を受け入れ、競争によって磨かれ、競争を昇華させ、分かち合う。逆もまた然り。分かりある合うためには衝突が必要。

 

勿論、道半ばの人間にはまだまだ分からないけれども、強さを持ってして優しくなる。優しいから強い。そういう道を歩んでいきたいし、未熟な自分と戦いながらまた新しい考えを見つけていきたい。

 

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